1930年5月15日、ジョージア州オーガスタに生まれたジャスパー・ジョーンズは、サウスカロライナ州の田舎に育つ。47年、同州コロンビアのサウスカロライナ大学に入学。49年、美術教師の勧めでニューヨークに移り、51年5月に徴兵されるまで同地に住む。約2年間の兵役を経て、53年にニューヨークに戻る。54年から57年にかけて、《旗》《標的》《数字》など代表作となるシリーズの最初の絵画を次々と制作。58年、レオ・カステリ画廊で初の個展を開き、内外から評価を集める。以来、世界の主要美術館で多数の展覧会を開催し、長年の業績に対する受賞も多い。最近3年間の仕事として、「絵画・彫刻」「ドローイング」「モノタイプ」とそれぞれの分野ごとに編纂された全作品集(カタログレゾネ)の刊行がある。2019年にはニューヨークのマシュー・マークス画廊で新作展を開催。いまなお精力的に制作活動を続けている。コネチカット州シャロン在住。
以下の年譜は、ジョーンズの作家歴のなかでも日本と関わりの深い事項を中心にまとめたものである。合わせて、第二次世界大戦後の日本の社会状況や前衛美術の動きなど時代背景の紹介にも努めた。より詳しいジョーンズの経歴については、ロバータ・バーンスタイン編・著『ジャスパー・ジョーンズ:絵画と彫刻カタログレゾネ』(ニューヨーク、ウィルデンシュタイン・プラットナー研究所刊行)第5巻の年譜を参照されたい。
1945
連合国に対する日本の無条件降伏により、第二次世界大戦が終結。
45年から52年まで、日本は米軍を中心とする連合国の占領下におかれる。ダグラス・A・マッカーサー最高司令官が率いる連合国軍総司令部(GHQ)の統制は、軍事面ばかりか、政治、経済、社会改革のあらゆる面に及ぶ。
1947
新憲法が施行され、日本国の象徴としての天皇の地位や戦争放棄、普通選挙の実施による民主主義が定められる。
1948
美術雑誌の復刊が相次ぐなか、現代美術の専門誌『美術手帖』が美術出版社より創刊される。
1950
6月25日、朝鮮戦争勃発。国連安全保障理事会の決議にもとづき、韓国防衛のためアメリカが参戦。53年には北朝鮮と休戦協定が結ばれる。
美術、音楽、舞台芸術などを総合的に扱う専門誌『芸術新潮』が新潮社より創刊される。
来日中の彫刻家イサム・ノグチ(1904-1988)は、抽象画家の長谷川三郎(1906-1957)によるインタビューの中で、前衛音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)の仕事を日本に初めて紹介。記事は『美術手帖』に掲載される。影響力ある美術評論家で詩人の瀧口修造(1903-1979)がインタビューに同席。
現代美術専門の画廊「東京画廊」が銀座にオープン。海外作家の紹介にも努める。
1951
5月、ジョーンズは米陸軍に徴兵される。サウスカロライナ州フォート・ジャクソンでの兵役を経て、52年、仙台に駐留する。
ジョン・D・ロックフェラー3世が日本を訪れ、文化交流を含む協定案の骨子を提唱。両国に文化センターを設立し、出版、翻訳事業の推進や、音楽、科学など各分野の研究者や指導者、学生の相互理解のための交換プログラムが構想される。
東京に「タケミヤ画廊」がオープン。瀧口の企画・助言のもと、57年に閉廊するまで200件を越す展覧会が開催され、若手作家の登竜門となる。
反画壇を標榜する瀧口をリーダーに、気鋭の美術家や音楽家、文学者らの総合芸術グループ「実験工房」が東京に結成。作曲家の武満徹(1930-1996)ら14名が参加する。
1952
4月、サンフランシスコ講和条約の発効により、連合軍による日本占領が正式に終了。アメリカは引き続き、沖縄を含む南西諸島や小笠原諸島を施政下に置く。
美術出版社から月刊誌『美術批評』(1952-1957)が創刊。同社の『美術手帖』とは一線を画す批評の場として、戦後世代を代表する多くの美術評論家を輩出する。なかでも東野芳明(1930-2005)は、ジョーンズを筆頭にジャクソン・ポロック(1912-1956)やロバート・ラウシェンバーグ(1925-2008)ら欧米作家の論評で活躍する。
東京国立近代美術館がオープン。
12月から53年4月まで、ジョーンズは仙台に駐留する。特別任務要員として、軍で上映される映画の宣伝用ポスターや教育目的のポスターを制作。仙台で歌舞伎公演に接し、東京ではダダやシュルレアリスム系の美術展(おそらく読売アンデパンダン展)などを鑑賞。この間、京都にも足を伸ばす。
1953
5月、ジョーンズは名誉除隊し、ニューヨークに戻る。
瀧口や岡本太郎(1911-1996)を含む30名の前衛美術家によって国際アートクラブ日本支部が設立される。
1954
ジョーンズはニューヨークで、ラウシェンバーグやケージ、舞踊家のマース・カニングハム(1919-2009)らと知り合う。コロンビア大学で鈴木大拙(1870-1966)の講義を受けていたケージの影響を受け、禅や仏教への関心を広げる。
日本では、若手美術家によるグループ結成の動きが高まり、吉原治良(1905-1972)をリーダーとする具体美術協会が結成される。身体性を強調する具体のアートは、実験的な試みやラディカルなパフォーマンスによって内外で注目を集める。
1955
自由民主党が誕生。ごくわずかな期間を除いて、21世紀のいまに至るまで政権与党の座を維持し、アメリカとの同盟関係を支持する。
1956
東京日本橋の高島屋百貨店が「世界・今日の美術」展を開催。東西の同時代のアートが一堂に集まり、日本と西洋との作家交流が始まる。ジョルジュ・マチウ(1921-2012)、サム・フランシス(1923-1994)、ジャン・フォートリエ(1898-1964)らの激しいタッチの抽象画が人気を集め、アンフォルメル旋風が巻き起こる。
志水楠男(1926-1979)の主宰による南画廊が東京にオープン。フランシスやジョーンズら国際的に活躍する現代作家の個展を日本で初めて開催し、アーティストばかりか、批評家、詩人、建築家の溜まり場となる。
第28回ヴェネチア・ビエンナーレにおいて、待望の日本館が竣工。
批評家の東野が詩人の大岡信(1931-2017)とともに「シュルレアリスム研究会」を発足。瀧口に監修を依頼する。
12月、日本の国際連合加盟が決定。
1958
ジョーンズの絵画3点が、第29回ヴェネチア・ビエンナーレで紹介される(6月14日〜10月19日)。日本館のコミッショナー、瀧口のアシスタントを務めた東野は、その後1年以上をかけて欧米を旅し、ニューヨークではジョーンズを訪問。59年に帰国後、ビエンナーレを含む海外アートの新動向について『芸術新潮』に記事を寄せ、ジョーンズほか数人の作品を「スキャンダル」として紹介。以後、ジョーンズの作品展開とその人となりについて旺盛な論評を続け、日本におけるジョーンズ研究の第一人者となる。
東京青山に草月会館が竣工。勅使河原蒼風(1900-1979)を初代家元とする草月流生け花の総本部であり、地下の草月ホールは、美術、音楽、パフォーマンスなどジャンルを超えた前衛芸術の拠点となる。蒼風の長男で、後に映画監督として名を馳せる勅使河原宏(1927-2001)が初代ディレクターを務める。
作曲家でピアニストの一柳慧(1933-)が、ディヴィッド・チューダー(1926-1996)のピアノ演奏によるケージの音楽を聴き、翌59年、ニューヨークのニュースクールでケージの伝説の授業「実験音楽」を受講。当時、一柳と結婚していたオノ・ヨーコ(1933-)は、鈴木大拙の講義を通じてすでにケージと面識があり、同じ授業を聴講する。
1960
日米安全保障条約が新条項とともに改正され、岸信介首相とドワイト・D・アイゼンハワー大統領によって締結される。条約批准に反対する学生、労働者の動きは大規模なデモとなって日本全土に拡大。同時に、国内は急速な経済成長の時代を迎える。
国内や国際間の急激な変化のなか、吉村益信(1932-2011)を中心とする作家グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(後にネオ・ダダと改称)」が東京で結成される。若手画家やパフォーマーら10余名が参加し、社会状況を反映した過激なアクションや路上パフォーマンスを展開。
1961
50年代半ばよりニューヨークに居住していた一柳が日本に帰国。草月ホールでコンサートを開く。マース・カニングハム舞踊団の依頼で作曲された「IBM」を披露。
1962
10月、ケージとチュードアが初来日。草月会館の招聘による30日間の日本ツアー中、東京、大阪、京都、北海道でコンサートを開く。ペギー・グッゲンハイム(1898-1979)、一柳、オノがツアーの大半に同行し、パフォーマンスや討論会、記者会見に参加する。
1963
東京では、60年代日本の美術界を先導するラディカルな若手美術家、高松次郎(1936-1998)、赤瀬川原平(1937-2014)、中西夏之(1935-2016)の3人が、「ハイレッド・センター」を結成。グループとしての活動は短命だったが、ネオ・ダダの動きに触発された社会意識の強い、反体制、反商業主義のイベントによって注目を浴びる。
1964
ジョーンズは、一柳やケージが出演するサンフランシスコの音楽祭「チューダーフェスト」(3月30日〜4月8日)にケージとともに向かう。武満も合流し、終了後、ジョーンズとケージ、武満の3人は、ハワイに向けて出発。ケージと武満は、ハワイ大学東西センターの客員教授として「今世紀の音楽と美術フェスティバル」(4月19日〜26日)に出演する。
4月30日、ジョーンズと武満はホノルルを出発して日本に向かう。ジョーンズは7月初旬まで東京に滞在。東野と南画廊の志水の手配により、銀座の美術家会館の7階にスタジオを構える。絵画《ウォッチマン》《スーヴェニール》《スーヴェニール2》《ガストロ》を制作。
東野の紹介で、三木富雄(1937-1978)や篠原有司男(1932-)ら、多くの美術家と知り合う。篠原のスタジオで「イミテーション・アート」シリーズの旗の絵を見せられたジョーンズは、自作の《3つの旗》(1958)の模倣とはいえ、補色の組み合わせが大胆な篠原絵画に刺激され、初期の色彩構想を思い起こしつつ、篠原と似た色合いの《旗》(1965)を新たに制作する。「イミテーション・アート」シリーズの小さなキャンバス《ドリンク・モア》(1964)にも米国旗が描かれ、篠原よりジョーンズに進呈される。
ジョーンズ、東野、美術批評家の中原佑介(1931-2011)が、瀧口を訪問。瀧口は、サム・フランシスが東京を離れている間、彼のアトリエでアート制作を続ける。ジョーンズの訪問を受け、一連のドローイング作品「ジャスパー・ジョーンズのための10のロトデッサン」を制作。作品は、椿現代画廊のグループ展「オフ・ミュージアム」で発表される。
5月23日、ジョーンズは草月ホールでの演奏会に出席。彼の34歳の誕生日を祝して武満が作曲した「J・ジョーンズのための時間のパースペクティブ」が披露される。
武満と関西旅行に出かけ、京都の修学院や桂離宮を見学。大阪では「グタイピナコテカ」を訪れ、具体の作家たちと交流する。
ハイレッド・センターが、初の東京オリンピック開催に沸き立つお祭りムードを揶揄するように、一週間の「非展覧会」を企画・開催。会場の内科画廊では、初日を記念して「クロージング」パーティが開かれ、招待状を手にしたゲストたちは、板を打ち付けて入り口ドアを閉鎖する赤瀬川と中西のパフォーマンスに立ち合う。最終日には「オープニング」パーティが開かれ、瀧口、一柳、フランシス、ジョーンズらが出席。
7月初め、ジョーンズは東京からニューヨークに戻る。
1965
ジョーンズの日本で初めての個展が、東京の南画廊で開催される(6月1日〜25日)。絵画、彫刻、ドローイングの計33点を展示。カタログ執筆は東野芳明。
1966
ジョーンズは、東京国立近代美術館で開かれる「現代アメリカ絵画」展(10月15日〜11月27日)のオープニングに出席するため日本に向けて出発。絵画4点が展示される。同展は、京都国立近代美術館を経て、インド、オーストラリアに巡回する。
滞日中、彫刻《夏の批評家》と、同じテーマによるレリーフ版画のためのワックス原型を制作する。瀧口の采配で、ワックス原型からプレス用の型をおこす作業は岡崎和郎に委ねられ、その型を用いて加納光於が和紙にレリーフ版画を制作。68年に完成されたレリーフ版画は、ニューヨークのジョーンズのもとに送られ、署名された。制作年は、ワックス原型が作られた66年と記載されている。
ジョーンズは、朝日新聞ホールで行われた討論会「現代美術はどこへ行く?」に参加。登壇者はほかに、三木、東野、クレメント・グリーンバーグ(1909-1994)、ルイーズ・ネヴェルソン(1899-1988)、アド・ラインハート(1913-1997)、ジェイムズ・ローゼンクイスト(1933-2017)。
11月、草月ホールで初演された「七つの丘の出来事」に参加。銀座の松屋百貨店で開催された「エンバイロメントの会」主催の展覧会「宇宙から環境へ」の関連イベントであり、武満、東野、一柳、ジョーンズ、山口勝弘、靉嘔アンサンブルがパフォーマーとして名を連ね、プロのピエロも登場。
11月14日、サウスカロライナ州エディスト・ビーチにあるジョーンズの自宅とスタジオが火災により焼失。スケッチブックを含む多くの作品が失われる。スケッチブックの一冊は、64年の日本滞在の際、東野がカメラマンの酒井啓之に頼み、全ページを撮影していたことから、写真の形で現在も残っている。
12月初め、東京からニューヨークに戻る。
1967
マース・カニングハム舞踊団の美術顧問に任命され、1980年まで務める。ジョーンズの初仕事は、ダンス公演「スクランブル」(1967)。一柳が音楽を担当する。
東京の南画廊が「版画 ジャスパー・ジョーンズ」展を開催(6月26日〜7月22日)。60年から66年にかけて版画工房「U.L.A.E.」で制作されたリトグラフ30点が展示され、瀧口と武満がカタログに文章を寄せる。
1969
ジョーンズは、後にシムカプリントアーチスツを主宰する川西浩史と出会う。川西は、東京のギャルリームカイの経営者、向井加寿枝の息子で、当時、ニューヨーク在住。
1970
日米安全保障条約が10年を経て改正。日本国内で再び反安保の動きが高まる。
5月、日本初の万国博覧会「EXPO‘70」が大阪で開幕。丹下健三(1913-2005)による総合設計のもと、磯崎新(1931-)を含む12名の建築家が万博会場の建設に協力。
向井加寿枝と川西により、シムカプリントアーチスツが東京に設立される。
1972
戦後の平和条約締結後もアメリカの統治下にあった沖縄が、5月15日、日本に返還される。駐留米軍の半数以上が沖縄に残留。
川西がジョーンズに声をかけ、プリンターの島田毅とともにニューヨークでの版画制作を開始。写真家で映画製作者のケイティ・マーティンは、シムカで制作中のジョーンズを記録・撮影し、ドキュメンタリー映画「シルクスクリーン」(1978)「花札/ジャスパー・ジョーンズ」(1981)と題して発表。ジョーンズは、以後10年間にわたって22点のスクリーンプリント作品をシムカで制作する。
東京の南画廊が「版画 ジャスパー・ジョーンズ」展を開催(2月21日〜3月11日)。
1974
志水と東野はパリでジョーンズと落ち合い、版画工房「クロムリンク」を訪れる。ジョーンズはそこで、サミュエル・ベケットとの共著『Foirades/Fizzles』(1976)の挿画となる銅版画を制作中。日本への帰途、オックスフォード近代美術館で開催中の「ジャスパー・ジョーンズのドローイング」展を見た二人は、あまりの素晴らしさに感嘆し、ドローイング作品を日本に送るようジョーンズに懇願する。
1975
「ジャスパー・ジョーンズ:ドローイング」展が東京の南画廊(10月27日〜11月15日)と京都のアメリカン・センター(11月26日〜12月6日)で開催される。カタログに東野と高松次郎が寄稿。
1977
10月、ホイットニー美術館でジョーンズの大規模回顧展が開催される(10月17日〜1978年1月22日)。ケルン、パリ、ロンドン、東京、サンフランシスコに巡回。
1978
ジョーンズは、「ウスユキ」シリーズの最初の絵画2点を完成。日本語の「薄雪」から取られた題名は、浄瑠璃の演目にある女主人公の名前で、後に歌舞伎に翻案され人気を集めた。ジョーンズは、2002年まで「ウスユキ」を主題とする絵画、ドローイング、版画を継続して制作し、合わせて24点が知られている。
8月、画廊主レオ・カステリ(1907-1999)とともに日本を訪れ、西武美術館(後にセゾン美術館と改称)で開催のジョーンズ回顧展(ホイットニー美術館からの巡回。8月19日〜9月26日)のオープニングに出席。重病の瀧口も出席し、ジョーンズとの再会を果たす。
東京銀座のギャルリームカイが「ジャスパー・ジョーンズ スクリーンプリンツ」展を開催(8月21日〜9月9日)。シムカとの共同制作によるジョーンズの一連の版画作品が紹介される。
東京の南画廊が「ジョーンズとベケットの本『Fizzles』」展を開催(9月4日〜26日)。
9月にニューヨークに戻ったジョーンズは、カニングハム舞踊団の「エクスチェンジ」初演に参加し、舞踊団の美術顧問としての最後の仕事を終える。顧問の名称は80年まで引き継ぐ。
1979
絵画《無題(E・G・サイデンステッカーに寄せて)》を制作。『源氏物語』の英訳(1976年刊)をはじめ、日本文学の翻訳家として名高いアメリカの学者、サイデンステッカーに敬意を表したもの。
1980
「ウスユキ」を主題とする3点のスクリーンプリントのうちの最初の1点を、川西、野中、島田の協力を得てシムカで制作する。
1981
東京の南天子画廊が「オマージュ 志水楠雄」展を開催(3月16日〜28日)。79年に早逝した伝説の画廊主を偲び、サム・フランシスの発案で同名の版画集が編纂され、ジョーンズほか多数の欧米作家が作品を寄せる。
1982
「ウスユキ」シリーズの中で最大かつ最後の絵画が完成。翌年、東京の西武百貨店のコレクションとなり、現在は軽井沢のセゾン現代美術館に収蔵されている。
1986
ニューヨーク近代美術館が「ジャスパー・ジョーンズ 版画回顧」展を開催(5月20日〜8月19日)。アメリカ、ヨーロッパ、日本の8ヶ所の美術館を巡回し、日本では、「ジャスパー・ジョーンズ 版画1960-1986」のタイトルで、1988年に群馬県のハラミュージアムアーク(5月28日〜6月17日)、大阪の国立国際美術館(8月4日〜9月6日)、北九州市立美術館(9月12日〜10月4日)に巡回。
1989
裕仁天皇(1901-1989)の崩御により63年間続いた昭和の時代が終わり、明仁天皇(1933-)が即位。平成の時代が始まる。
1990
「ジャスパー・ジョーンズの版画」展が、東京の伊勢丹百貨店と日本芸術文化振興会の共催のもと、伊勢丹美術館で開催される(4月26日〜5月15日)。その後、新潟、埼玉、千葉、静岡各県の伊勢丹百貨店アートギャラリーに巡回。
1993
ジョーンズは東京で「高松宮殿下記念世界文化賞」の絵画部門を受賞。日本美術協会の創設によるこの賞は、絵画、彫刻、建築など各分野で世界的に顕著な業績をあげた芸術家に毎年授与される。
滞日中、美術家の宇佐美圭司によるインタビューを受け、学術誌『へるめす』の94年3月号に掲載される。幅広いテーマの中、ジョーンズは日本との関わり、とりわけ仙台で過ごした日々や東野との関係について饒舌に語っている。
1994
大阪の国立国際美術館が「ネオ・ダダの二人:ジョーンズとラウシェンバーグ」展を開催(5月5日〜7月3日)。
1996
ニューヨーク近代美術館で大規模なジャスパー・ジョーンズ回顧展が開催される(10月20日〜1997年1月21日)。ケルンと東京に巡回。
1997
MoMA開催のジョーンズ回顧展が東京都現代美術館に巡回(6月28日〜8月17日)。開幕に合わせ、ジョーンズが来日する。
2004
ジョーンズの作品が、アキラ・イケダ・ギャラリー田浦で開催の「ブラック・レッド」展(9月4日〜10月30日)、および大阪の国立国際美術館で開催の「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展(11月2日〜12月29日)に出品される。後者は翌年、横浜美術館に巡回(2005年1月5日〜3月21日)。
2005
ジョーンズは、敷石のモチーフや、蝶番のついたドアや紐のイメージを用いた3枚1組の絵画のうちの1点《桃山》を制作。
ジョーンズの作品が、東京の世田谷美術館で開催の「瀧口修造:夢の漂流物」展に出品される(2月5日〜4月10日)。富山県立近代美術館に巡回(5月28日〜7月3日)。
軽井沢のセゾン現代美術館が「ジャスパー・ジョーンズを中心に」展を開催(4月16日〜6月26日)。
ジョーンズの絵画《0-9の重複》(1961)を含む「アメリカ:ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」展が長崎県美術館で開催される(7月12日〜8月21日)。東京の府中市美術館(8月27日〜10月2日)、金沢21世紀美術館(10月8日〜11月6日)、北九州市立美術館(11月20日〜2006年1月9日)、兵庫県立美術館(2006年4月4日〜5月14日)に巡回。
2006
ニューヨークのクレイグ・F・スター画廊が「ジャスパー・ジョーンズ:ウスユキ」展を開催(10月9日〜12月16日)。
2007
東京の国立新美術館で開催された開館記念「20世紀美術探検:アーティストたちの三つの冒険物語」展(1月21日〜3月19日)にジョーンズの絵画2点が出品される。
2011
ジョーンズは、バラク・オバマ大統領より大統領自由勲章を授与される。
ジョーンズの作品が、千葉市美術館で開催の「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展に出品される(11月22日〜2012年1月29日)。
2012
倉敷の大原美術館が「ジャスパー・ジョーンズ:数字を描いた男」展を開催(4月10日〜6月17日)。
2013
ジョーンズの作品が、東京の国立新美術館で開催の「アメリカン・ポップ・アート」展に出品される(8月7日〜10月21日)。
2016
オバマ大統領がアメリカの現職大統領として初めて広島を訪れ、平和記念式典に参列。
*本年譜を作成するにあたり、翻訳者、藤森愛実のご協力を得ました。記して感謝いたします。