マーシャ・ハフィフの作品を考察するにつれて、このアート世界がいかに恣意的な認識の中にあるかを改めて思い知らされた。性別、年齢、適切なタイミングで適切な場所にいること、作家の名声、ディーラーの信頼度、または純粋に運などの要素は、作品自体の質よりも、アート作品の受け手に大きな影響を与えるようだ。私たちの習慣が美術史の権威あるルーブリックによって助長されていることを考えると、これは特に問題視されることであり、それはサイコロの目を出すことよりも、具体的な何かに基づく客観性を示唆している。幸い、これまで見落とされていた作家達を再評価する定期的な改訂は行われるが、そもそもより困難な状況下に身を置く必要がなく、男性として生まれ、1960年代のニューヨークに住んで、レオ・キャステリ画廊の作家として生きることができていれば、どれほど容易く険しい道のりを回避できたであろうか。 

ウィーンの画商、ヒューバート・ウィンターの細心な指示によって展示されていたマーシャの作品を目の当たりにした際、彼女の作品に本来送られるべき賞賛が、なぜアメリカで受けることができないのかと大変理解に苦しんだ。1961年より制作されていたマーシャの絵画、紙の作品、写真、フィルム、批評的な文章を見ると、権威と彼女の生み出すものの一貫性は、作品自体の何らかの欠陥によって認識が不足しているという可能性を除外することができる。では別の理由として、他に何が上げられるのか。それらについて、私は次の理由の通りに考える。 

58., 59., 60., 61., 62., 63., (Mirror, Mirror I-VI), November 1964, $475,000
58., 59., 60., 61., 62., 63., November 1964. Acrylic on canvas, each: 19.7 x 19.7 inches (50 x 50 cm)

カリフォルニア人でありながら、カリフォルニアン作家ではないこと:

ハフィフ(1982年生)という苗字は、ロバート・アーウィンのような、同世代のカリフォルニアのアーティストであるという認識がされずらく、異国情緒を持ち合わせていた。1929年にカリフォルニア州ポモナでマーシャ・ウッズとして生まれた彼女は、1951年にハーバート・ハフィフと結婚したことで苗字がハフィフとなった。彼女は生後の30年間をカリフォルニアで過ごし、1951年にポモナ・カレッジを卒業後、1950年代には講師をしながら、絵画クラスに通いながらイタリアのルネサンス芸術と極東芸術を大学院で学んだ。1960年にはウエスト・ハリウッドに住み、多くのイタリア映画を鑑賞していた頃、フェルス・ギャラリーで作品を出展していたアーティスト達と出会い、時に彼らの手伝いもしていた。その後1961年に、自身をこれまで学んだ芸術世界に身を置くべく、イタリアのフィレンツェに向けて飛び立つことを決意した。当初、ハフィフは1年間のみの滞在を計画していたが、絵を描くためにローマに定住し、そこで息子(1963年生)も育て、最終的にイタリアで1969年までを過ごした。 

ハフィフのローマでの時間は、彼女の作品が1960年代のウエスト・コースト・ミニマリズム、ポストミニマリズム、およびコンセプチュアリズムの進化に当てはまらないことを意味した(作品の類似性は見られる)。美術学修士号取得のために1969年から1971年にかけてカリフォルニア州立大学アーバイン校で過ごした時間を除けば、ハフィフが西海岸で制作を始めたのは、1999年にラグナビーチにスタジオを設立してからの事となる。1975年のラホーヤ現代美術館での個展から今年2015年のラグナ美術館での個展開催の間、40年という月日が経過することとなった。 

I., February 1962. Varnish on brown paper, wood, 39. 4 x 27.5 inches (100 x 70 cm)

欠如したイタリア絵画: 

1961年から1969年のローマで、ハフィフは自身が呼ぶ「イタリア絵画」という作品を制作した。これらの作品は、アメリカで展示されたことはなかった。彼女の世界初の個展は1964年ローマのギャレリア・ラ・サリータで行われた。彼女の作品は批評家により、作品のサイズが大きすぎる「アメリカンサイズ」や、教習所の壁にかけられた「アメリカの冷えた酒(安っぽいポスター)」のようなものだ、などと言ったなどど批判を受けながらも、定期的にイタリアで展覧会が開催され、商業的な成功を納めていた。美術学修士号を取得するために1969年にイタリアを離れ、カリフォルニアに戻ると、彼女は新たなスタート切るべく、この作風を離れることとなる。イタリア絵画は、ジュネーブ近現代美術館(MAMCO)館長のクリスチャン・バーナードの管理下に置かれ、2001年に彼が美術館に展示し、2010年にカタログレゾネが発行するまでの間、長い間日の目を浴びることがなかった。出版されたカタログは、鑑賞者を焦らすように、作品の素晴らしさの一部のみを見せている。この度、我々ニューヨークのギャラリーにて、2016年5月にそのめったに見ることができない、ハフィフのイタリア絵画の作品群を発表することが決まり、このことを大変嬉しく思っている。それらの作品は、この時代におけるアメリカ美術史の大きく、そして重要な欠落を意味し、その事実が彼女の作品が母国での称賛を受け取られていなかったという重要な要素でもある。 

An Extended Gray Scale, 1973. Oil on canvas, 106 parts, each: 22 x 22 inches (55.9 x 55.9 cm)

ニューヨークでの「ビギニング・アゲイン」: 

1971年にニューヨークの地に降り立った彼女は、40代前半にソーホー地区のロフトに落ち着いた。「絵画の死」が厳しく宣言されていたこの頃のニューヨークに、画家として、彼女が訪れた時期としてこれより幸先の思わしくない時期はなかったではないだろうか。そんな中、1978年のハフィフの代表的なArtforumエッセイ「Beginning Again(再び始めること)」で、彼女は当時の状況と思考プロセスについて表現し、それによって絵画をその基本的な素材と技法に分解することにつながったと説明した。今日に至るまで、そのエッセイはモノクローム・ペインティングの継続的な真実性への最も説得力のあるものとなった。 Begining Again(再び始めること)は、彼女のイタリア絵画を過去のものとし、顔料とプロセスの可能性について規則的な探究をすることを意味し、それは27の「インベントリー」の作品群(2015年時点)へと発展してきた。その発展の中軸となるのが、「An Extended Gray Scale(アン・エクステンディット・グレー・スケール)」である。これは、ハフィフが1972年から1973年の間に完成させた単一の作品であり、22インチの正方形のキャンバス(最終的に106パネルに達する)のシリーズで白と黒の間で知覚できるすべての色調の変化を記録した作品だ。

我々のギャラリーでは、今月末のアート・バーゼルでのアート・アンリミテッドでこの「An Extended Gray Scale(アン・エクステンディット・グレー・スケール)」を展示する。この展示は、この作品全体として初めての公開となる。特筆すべき点として、ハフィフ作品は1974年からイリアナ・ソナベンドにより扱われることとなり、1978年までニューヨークとパリのギャラリーで個展が開催された。ハフィフの作品は、1976年6月のアラーナ・ハイスによる初のP.S. 1での展覧会「Rooms」でも展示された。彼女の評価は徐々に注目を集めていった。 

Broken Color Painting: Cadmium Orange, Ultramarine Blue, 1978. Oil on canvas, 38 × 38 inches (96.5 × 68.5 cm)

ギャラリーの力: 

しかし、ソナベンドでの売り上げは平坦なものであり、同ギャラリーが、新たな焦点としてドイツ新表現主義作品に重きを置き始めたことから、1981年の個展を最後にソナベンドは、ハフィフの取り扱いを終了した。その後、1988年と1989年にジュリアン・プレットで個展が開催されるまで7年という歳月が流れた。 1990年にP.S.1での個展を開催したにも関わらず、今日にいたる25年間においてニューヨークで開催された個展の数はわずか6回のみに留まった一方、対照的に、同じ25年間に、ハフィフはヨーロッパのギャラリーや美術館で70以上の個展を開催した。スタイル的には、1980年代と1990年代は、新ネオ表現主義の波が主流でそれ以前の様式を全て洗い流す状況であったため、ミニマリストで概念的な作品を持ってニューヨークで活動していた同作家にとって、この時期は厳しい年代ではあった。美術館の学芸員、美術評論家、コレクターの視覚的意識に留まり、作品を展示する機会を持ち続けたアーティストは、堅実なディーラーによって支えられていた。一方そういった「正当な」ギャラリーで扱われない作家達の場合は、作品に対する評価は、ほとんどの場合過小評価をされ、彼らの制作した作品の真意からは、ほとんど、またはまったくかけ離れたところで行われていた。 

Untitled, 1976, Exhibition: Rooms (P.S. 1), 21-01 46th Road, Long Island City, Queens, 3rd Floor

性別: 

ハフィフは、「絵を描くことで成功を収めることができなかった理由について、私が女性であったからであると思ったことはありませんでした。…数学が数学であったように、絵画は絵画だったんです。」と述べ、 さらに振り返って、彼女は次のように残している。「このことは、私のナイーブな一面が前向きに働いて、それが私を前進させていたとんです」と。 アーティストとしての日常的な取り組みとして、彼女の主張には同意するものもいるだろう。しかしながら、彼女は他の多くの女性アーティストと同様に、批評家、キュレーター、コレクターによって長期にわたり適切な評価をされずに見過ごされ、そのことに苦しんだことも事実である。実際、彼女の作品における女性的な性質についての議論に対するハフィフ自身の沈黙は、他の女性アーティストよりも彼女が世の中に受容される時期を遅らせるとになった。「イタリア絵画」群が見過ごされ、またそれらの作品が彼女の「インベントリー」シリーズの中から欠如していたことが、1981年まで彼女が再評価されずにいたことの要因になっていたかどうかを考察することも興味深く思われる。 ただし、彼女の人生の異なる時期において、ハフィフは性に対して明示的に、作品に取り組んでいる。例えば、1976年のP.S. 1での「Rooms」展や2013年のギャビン・ブラウンエンタープライズやその他マンハッタン展示場での「Made in Space」展などがあげられる。

Left: 128., September 1966. Acrylic on canvas, 78.7 x 66.9 inches (200 x 170 cm) Right: 189., March 1968. Acrylic on canvas, 45.2 x 39.3 inches (115 x 100 cm)

系統および暫定的な同姓代アーティスト間のグループ: 

1972年から1961年における、ハフィフのキャリアの始まりを振り返ると(キャリアを開始するには比較的遅い年齢とされる31歳)一貫したピアグループの現れがみて取れる。1929年生まれの彼女の同世代には、エルズワース・ケリー(1923年生)、ロバート・アーウィン(1928年生)、ロバート・ライマン(1930年生)、そしてゲルハルト・リヒター(1932年生)らが挙げらる。この概念志向で物質的に従事する抽象主義者の続きは、アレクサンドル・ロチェンチェンコ(1891年-1956年)から始まり、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893-1952)、ヨーゼフ・アルバース(1888-1976)を経て、ハフィフと彼女の同世代作家達に引き継がれる。顔料への彼女の細心の注意と、ほとんど取り憑かれたようなそのニュアンスの記録は、アルバースとの密接な関係を示している。彼女が「インベントリー」に取り組み、進歩させた体系的な方法は、リヒターの「アトラス」との興味深い奇妙な類似点を見せている。 リヒターと同様に、1970年代初期に、彼女は灰色のモノクロームによってカラーパレットを制限した制作をすることを選択した。両者の塗料の質感に対する関心はライマンのそれと一致する一方で、ケリーの作品の中に見られる厚みとは異なっている。興味深い点として、リヒターもニューヨークのギャラリーで作品が展示され出されたのが遅い時期であり、1973年のラインハルト・オナッシュギャラリーでの展覧会が彼にとって初めてのものだった。彼もまた新ネオ表現主義の到来に苦しみ、1990年代になるまでアメリカ大衆からの脚光を浴びることがなかった。 

Double Glaze Painting: Terre Verte/Indian Yellow, 2003, SOLD
Double Glaze Painting: Terre Verte / Indian Yellow, 2003. Oil on canvas, 30 x 30 inches (76.2 x 76.2 cm).

結局のところ、マーシャ・ハフィフの功績は彼女自身の定義するところに存在する。是非その作品群を実際に目の前で感じることをお勧めしたい。作品を通して、私が抱く彼女に対する敬意と、1人の作家としての彼女への称賛を共有しつつ、本来彼女が受けるべき認識を共に高めていけると確信している。

ファーガス・マカフリー

2015年6月