峯 村 敏 明

 ちょうど半世紀前の1970年5月、東京都美術館で開かれた「第10回東京ビエンナーレ―<人間と物質>展」。日本の美術界にとっては幕末の黒船来航にも似た激震として今なお語り継がれているけれど、いま振り返ってみると、この展覧会を、たんに欧米美術の最先端の意識が日本列島をひと撫でした出来事として整理してしまうのは惜しい気がする。すぐ後の「現代美術の動向展」(7―8月、京都国立近代美術館)や「1970年8月―現代美術の一断面展」(8月、東京国立近代美術館)で全容を現わした日本のもの派を考慮に入れるならば、そこには主として北米のポスト・ミニマル、イタリアのアルテ・ポーヴェラ、日本のもの派というそれぞれ異なった背景から出てきた特色のある集団がより大きな舞台で緩やかな邂逅を演じた光景が見えてくるはずであり、しかもその内の何人かのユニークな作家たちの間で不思議な共鳴現象が見られたことに関心が向けられていいのではないかと思う。

 その東京ビエンナーレ。開幕前日の5月9日早朝、近県の植木屋から高さ8メートルほどの杉の木を1本、会場の東京都美術館の前の上野公園に運び込み、亭々と茂る木々の間にそれとなく植え込んでしまった芸術忍者がいた。物質と制作過程を重視するアメリカのポスト・ミニマル動向の中でも、特定の場での作品成立ということにひときわ意識を高めていたリチャード・セラである。目撃したのは、セラを助けて行動を共にし、貴重な写真を残してくれた安齊重男と植木職人だけ。作業が済むと、杉の木と周りの木々とを区別するものは何も無くなってしまい、キャプションのたぐいも作者の意向で掲示されなかったから、それがセラの作品行為だとは関係者以外誰にも分からなくなった。いや、分かったとしても、前年にこの作家が≪House of Card≫や≪Casting≫で示した素材物質との緊張に満ちた交渉ぶりを知っている人ならば、この杉の木の移植はあまりに穏やかで、拍子抜けしたのではあるまいか。もしかすると、作者自身にも不満の残る作品だったのかも知れない。その後の膨大なセラの文献から、この≪Sugi Tree≫はすっかり抜け落ちているからである。

けれど、私の中で≪Sugi Tree≫は鮮明に生き続けてきた。確かに、この作品はセラの他の作品と違って可塑性も彫刻言語の展開力も欠いているし、鑑賞者に概念の働きを要求するという弱点を抱えてもいる。そもそも、数十年後の公園再整備の際には撤去されてしまった。だから、彫刻として評価しにくいのは明らかなのだが、さりとてこの作品の力は文学的・逸話的・絵画的に発揮されているわけではない。まして錯視効果でもない。セラの他の作品と同じように、制作過程をありのまま残し、ものとして率直に現前しているのである。すると、この作品の魅力は何に由るのだろうか。単純にものを見るということの中に、隠れと現われの両面があることに改めて気づかせてくれるからではないか。この二面性は、見る者と存在するもの(対象)との間につねに介在する知覚の条件なのだが、ふだんは気づかれない。芸術の仮構が介入して初めて顕わになるたぐいの、世界の実相なのである。

ありがたいことに、セラはこの≪Sugi Tree≫から100メートルほど離れた美術館の前に、より明示的な作品を残していた。L字形鋼鉄でできた円環を半円ずつに割り、天地逆転して再接合させたような格好の構造体。それが美術館前の地面すれすれに埋められて、L 字の頂きが線状の半円形を、その底面が帯状の半円形となって地表に露呈することになった。むろん、露呈したのは構造体の半分であって、他の半分がさかさまの姿で地中に埋もれているだろうことは容易に想像がついた。

≪To Encircle Base Plate(Hexagram)≫と題されたこの作品は、作家が図面を引き、鋼鉄を加工してわざわざ作らせただけに、≪Sugi Tree≫よりはるかに「隠れと現われ」の構造を現実化しており、見る者に中国古代からの「陰陽の理」の論理性をすんなりと感じさせるものであった。それゆえそれは、100メートル遠方の公園の自然性に包まれた≪Sugi Tree≫に、いわば陰陽学的解釈の光を投じていたのである。セラ自身、この作品の論理性により大きなチャンスを与えたかったのだろう。その年の暮れ、ニューヨーク・ブロンクスの廃れた道路に同型の構造体をさらに大きな規模で設置し、≪To Encircle Base Plate Hexagram, Right Angle Inverted≫ という最終的な名前を与えた。

ところで、このタイトル、東京ビエンナーレの時と少し違っていっそう事実に即した感じではあるが、冒頭の「To Encircle…」は同じである。不思議ではあるまいか。行為を重視するセラだけれど、作品の題名を「to‐infinitive」で始めた例はきわめて稀なのだ。行為性を最高度に顕示したあの溶けた鉛のぶちまけ作品でも、名は≪Splashing≫ないし≪Casting≫だった。東京で「隠れと現われ」の半々の理を現成するのにこれまで試みたことのないユニークな構造体を作ることになったとき、その初々しい気持ちが不定詞を呼び寄せたのだろうか。とまで考えたくなるのは、セラには自覚的に彫刻制作に入ったばかりの1967₋68年、思いつくまま100例に近い他動詞(と若干の抽象名詞)を手書きした有名な≪Verb List≫という言葉作品があるからである。その動詞はすべて「to‐infinitive」で綴られていた。冒頭の「to roll」は早速68年の一連の鉛の薄板を巻いた作品で現実化しているが、たぶんに遊戯性を発揮して繰り出された言葉だから、現実の作品に結びつく例は多くはなかった。ところが、リストが60パーセントほど進んだころ、突然、特異な意味傾向の言葉が集中的にあらわれるようになり、しばらくするとまた止んだ。すなわち、to enclose, to surround, to encircle, to hide, to cover, to wrap, to dig, to tie, to bind, to weave, to join, to match と続く語彙群である。このあたり、動詞リストを綴る作家の胸中で、鉄の環で「隠れと現われ」を内包する作品、すなわち≪To Encircle Base Plate (Hexagram) ≫のようなものをつくって地表と地下を縫合するプランが、予感として兆していたのではなかろうか。そう想像したくなるほど、東京ビエンナーレの作品≪To Encircle…≫には≪Verb List≫の呼気が感じられるのである。

ちなみに、1969年中に仲間うちで交流と研鑽を深めていたもの派の何人かは、一時期、物質を呼び寄せるような動詞を繰り出す遊びに熱中していたと言われる。セラの≪Verb List≫が印刷されて広く知られるようになったのは1972年のことだから、もの派の動詞遊びがそれと似ているのはおそらく偶然であろう。けれど、そのような偶然が地球の反対側で起きたこと自体、意味深いと感じざるを得ない。イメージや形に先導されずに物質(自然)と人間が直接交渉するような新しい文明への望みを抱いた世代――メルロ=ポンティの現象学にどっぷり浸った世代――が、知らずに同じ遊びに興じていたということなのだから。

さて、同じ東京ビエンナーレ’70の開幕前日のこと、美術館の中ではローマから来たアルテ・ポーヴェラの驍将ヤニス・クネリスが、あてがわれた大きな展示室の入口で苦闘していた。展示室の内壁に何本ものガス・バーナーを取り付けて、燃え尽きるまで炎を出し続けるという当初案と、展示室の壁に小石を埋め込んで壁を変質させるという第二案は、ともにイタリアの画廊での個展では実験済みの安全な案だったのだが、貸会場としての都美術館に吞めるわけがなく、疾うに頓挫していた。ゆえにクネリスは、最後の案として展示室の入り口に大量の石を積み上げて、空間を封鎖しようと奮闘していたのである。が、これも床が重みに耐えられないと分かって万策が尽き、日も暮れた。さて、どうなったか。記録によれば「初日の朝、彼は一本の鉄棒を買ってきて、石にかえて、展示室入り口を閉鎖した」のである。さすが、と言うべきか。苦肉の策とはいえ、展示室を閉鎖したはずのこの鉄棒は、逆に、予期しなかったものを開く結果となったのである。(付言すれば、このあと、クネリスは数日を京都で過ごして東京に帰り、鉄棒の上下にバネを取り付けるという微修正を施して、やっとこれを正式の作品として認め、帰国した。)

たかが1本の鉄棒、と思われるだろうか。だがこの1本は、展示室を「内」と「外」とに分節し、空間が多元的であることを、少なくとも二面性を持つものであるという事態を、呼び覚ましたのである。セラが公園の林の中に植え込んだ杉の木の1本と同様、クネリスの鉄棒は、それだけが作品として見られるべき価値的なものから一歩退いて、見る人の気づきをまずは空間の二面性へ、さらには周辺全体の状況へと導いてゆく触媒ないし信号機としての役割に変化したのだ。

東京へ来る前のクネリスは、1967年にはローマの画廊で生きたインコやサボテン畑を展示して、現実と芸術を等号で結ぶアルテ・ポーヴェラの作法に先鞭を付けたと称されたのだったが、興味深いことに、そのローマのラ・サリ―タ画廊で66年、生きた兎と剥製の兎を一つの飼育箱に収めた作品≪Live Animal Habitat≫を展示したのは、フルブライト留学生のセラだった。セラとクネリスは、かように当時から近い関係にあったわけだが、セラがそのころから生だけでなく「生と死」を同一の飼育箱内の二面の事象として見ていたのだとすれば、東京での陰陽学的作品への伏線だったと言えるかも知れない。他方、クネリスはその後69年、10頭の生きた馬を画廊のガレージにつないだ個展で世界に名をとどろかせた。人々はそれをインコの拡大版として、つまり現実即芸術という芸術観のいっそうの激化として受け止めたらしいが、クネリスの意識はむしろ、馬の存在にとっての環境ないし場所の方に移り始めていたのではあるまいか。東京ビエンナーレのための第一案も、炎自体を展示するというイヴ・クライン的発想よりも一歩進んで、展示室という環境とガス・バーナーの燃焼とを現実の総体として見てみようとの意図であったにちがいない。クネリスはセラと違って屋外や都市空間への進出には消極的だったが、それでも、環境や場所の重視という点では、そこそこセラと対話可能な地点を歩んでいたのだった。だから、東京ビエンナーレでの鉄棒1本がセラの杉の木1本と似た位相を示すことになったのは偶然ではないのである。

東京ビエンナーレの京都会場で、東京での≪To Encircle…≫と類似の構造体を正方形でつくって地下に半没させたセラは、その後も数週間、京都市内の禅宗の名刹、妙心寺に通い詰めて、伽藍と庭の持つ回遊的空間の構造の妙を研究しつくし、その後の全体視を内包する彫刻の展開のために決定的な指針を得たという。しかし、それはもはやセラ芸術の全容に及ぶ話になるので、この短文の任ではない。機会があったら、東京ビエンナーレの2作品で見せた「隠れと現われ」半々の空間分節が、その後の作品の雄大な展開にどのような反響を及ぼしているか、考えてみたい。

そのセラも帰ってしまった7月の京都で、国立近代美術館が恒例の「現代美術の動向展」を催した。2カ月前の東京ビエンナーレで不在だったもの派の菅木志雄が、乾坤一擲、美術館2階の展示回廊の一部の窓枠に、太い角材を斜めにあてがって、私たちを驚かせた。この≪無限状況≫という作品、窓の外に京の街並みが広がって見えたから、その鮮やかさゆえか、誰も東京ビエンナーレでのクネリスの鉄の棒のことは思い出さなかったらしいけれど、両作品はまぎれもなく同じ「隠れと現われ」の半々の理を空間化した兄弟なのである。むろん、菅がクネリスを参照したなどというレベルの話ではない。菅がこの半々の理を自分の芸術の中の核心的な語法の一つとしていることは、翌71年の宇部野外彫刻展でプラスチック製の板と石の浮力を中和させて湖の水面に半ば浮かせ半ば沈めた作品≪状況律≫などで明らかだからである。極め付きは、1978年のヴェネチア・ビエンナーレで発表した≪全体の中の一側面≫であろう。菅は縦に裂いて二分した杉の木を室内の全域に立て、かつ横たえて、日本館の空間を正と負、表と裏、鏡と沈黙等が無限に転換・交替する戯れの場と化してしまった。セラの≪Sugi Tree≫が別の身体を得て、もう一つの発展形を示したかの観があった。

隠れと現われの理法は一種の形而上学である。でも、セラ、クネリス、菅に隠れ学(神秘主義)に陥る懸念はなかった。みんな現象学以後の世代だったのだ。(2019年12月31日)