河﨑晃一(インディペンダント・キュレーター、具体研究者)
〜はじめに〜
元永定正は、日常会話の中でしばしばジョークを言って人々を笑わせた。「一寸先は光」(註1)もその口癖のひとつ。それは、楽天的な自由人だった彼の生き方を示すジョークというよりも彼の生き様であり、常に前向きに制作した作品表現にも通じている。元永は、平面作品だけではなく、立体作品、絵本を制作した。また、本来かたちの定まらない水や煙を作品として表したことは、彼の発想の柔軟さを最も示すものである。元永定正の初期作品の中には、平面作品とは違うかたちで表現された作品がいくつかある。初期の立体作品《ざるから》《めばえ》《くぎ》《作品》(水にろうそくを浮かべた作品)、石に色を塗り上に麦わらのストローをつけた作品をはじめ、《水》《煙》がかたちを生み出す立体作品や舞台でのビニールチューブの作品、そして後年の椅子や針金を使った立体的平面作品や陶を素材とした野外彫刻など、それらは、自由な発想のもとに作品が生まれてきた。その自由な発想の源は、彼の育った環境にあるのではないだろうか。大柄で気さくな元永は、持ち前のユーモアとジョークでいつも周りの人を楽しませてくれた。そんな人柄の元永は、どのような生い立ちをもったのだろうか。ここでは、元永の88年の歩みを追ってみたい。
〜おいたち〜
元永は、1922年11月三重県阿山郡上野町(現在の上野市)に二人兄弟の長男として生まれた。生家は、祖母と母が駄菓子屋を営み、後には小さな日本料理店をはじめ成功した。父はハイヤーの運転手だった。自前の車は、アメリカ製で当時家が一軒建つほどの高額なものだった。故郷の伊賀上野は、母の育った地であり、そこは四方を山に囲まれた盆地で古い時代から忍者の隠れ里として知られているところである。多くの子どもがそうであったように,元永世代の子どもも小学生の頃には、漫画に傾倒していた。友人がまねて描く漫画に「おれもあんなに描ければよいのに」(註2)と思ったことが、漫画家志望の要因であったかもしれないと彼は回想している。10歳ころからは、町の道場に柔道の稽古に通ったという。その後もつづけられて二段という位をとっているので、経験や精神性が問われるスポーツだけに優れた成績と言える。彼の頑強な体力は、このころから柔道によって鍛えられていたのだろう。子ども心に元永は、将来映画俳優か唄うたい、あるいは絵描きになりたいと思っていた。自分の力で好きな道を歩みたいと思っていた彼は、ある日母に打ち明けたところ、ひどくしかられたことを記憶しているという。
彼の記述では、元永の小学校時代は「勉強も遊びもいろいろと思う存分のびのびやれて幸せな時間を過ごしたし、まずまずの成績を残して卒業した。」(註3)だった。
1935年、三重県上野商業学校に進学したが、入学後すぐに商業を学ぶこと、つまり彼自身商売には向いていないことに気がついた。反抗期とも相まって、勉強には興味が持てずに決して良い成績ではなく3年間を過ごし卒業した。1938年、彼が16歳のことである。
ここまでの元永定正の歩みは、美術を志すほどに美術に興味を示すでもない、漫画好きの至って普通の子どもであった。ただ、どんなときにも自分自身の気持ちを貫く要素は芽生えていたように思える。
卒業後初めて実家の母の元を離れて大阪の機械工具の販売店に住込み店員として勤めた。しかし、仕事と生活のあまりのきつさにほどなく転職した。大阪に住んでいた父(註4)に相談し、軍需工場で働くこととなった。ここでは、緻密な作業についたが、性格的に合わず、しばらくして結局伊賀上野に帰ることになった。彼は「中学三年生の学歴で才能も未知数な若者に満足できる仕事などあるわけがないのは当然である」と回顧している。(註5)今度は、母が相談に乗ってくれて国鉄の職員を受験した。が、身体検査はパスしたものの、学科が及ばず失敗した。悔しい思いをした元永は、塾に通い必至に学び、二回目の試験で見事合格し、国鉄職員という公共性のある堅い仕事に就いた。しかし、その仕事も4年余りでやめることとなった。この間も元永は、仕事を続けながらも漫画家になる夢は捨て切れず漫画雑誌に投稿を続けている。第二次大戦が激しくなっていく時代ではあったが、山間の町伊賀上野は,静かな町だった。元永は、もっと絵の勉強をすることを希望し郵便局の局長を務める地元の画家を紹介してもらった。それは彼が絵を習った最初の出来事である。そして,元永にも召集令状がきた。頑健な体格の彼は、当然のことながら入隊することになるはずだったが、最終検査で不合格となった。痔の疾患があったからである。彼にとっては、救われた気分であったことだろう。その後は、伊賀上野に帰り軍需工場で働くなど戦時中を地元で過ごした。
終戦の翌日1945年8月16日に元永は、絵の先生から茶会を開く招待を受けた。小説家、詩人、評論家たち地元の文化を支える人たちを集めた茶会に参加した元永は、その時の様子を次のように語っている。「お茶会は形式ではない。社交の場として語り合える空間のようだ。戦争が終わって自由なみんなの世界が始まる。終戦の次の日だから今日の茶会は大きな意義がある。これから平和な世界を築いて行こうと言う意気込みも感じられたが、これは爆撃で壊滅した大都市ではとても考えられない贅沢なことだった。伊賀の田舎だからできた。」(註6)若き元永に心の大切さを教えた大きな出来事であったに違いない。終戦後元永は、地域の慰問団で演劇をしたり、さまざまな行事に参加した。やがて絵の先生からの誘いで彼がいる郵便局で働くことになった。そこでは仕事のかたわら画集を見たり、絵の話をしたりすることが度々あり、休みには写生に連れて行ってもらった。油絵をはじめて描いたのもこのころである。またこのころ長年続けていた柔道をやめて社交ダンスの教室に通うようになった。女性への芽生えの時期でもある。合唱隊に加わったり、連載漫画の仕事を受けたり、映画館の看板描きなど多彩を極めた。元永は、数々の職を転々としながらも画家としての歩みを一歩ずつ進めてきた。それは戦争を挟んでの日本が最もきびしい時期であったが、周囲の人に助けられながらも我が道をめざした元永の気持ちは、ぶれていなかった。
1952年初夏のある日、元永は「私の天才が伊賀に埋もれては人類の文化の損失になる」と決心した。彼曰く「決して自惚れているのではなく」「無理に自分を励ましていないと心がつぶれて生きていけないのだ」(註7)と語っている。元永は故郷を離れる決心をした。そして弟が住む神戸市の東寄りの魚崎に同居することになる。
〜本格的な制作活動〜
運良くディスプレー会社に仕事を見つけ、絵を仕事としての道を歩み始めたかに思えたが、彼自身「絵描きを続けるためには絵に関係のない仕事の方が良いだろう」という判断のもと退職し、その後再び仕事を転々とした。彼自身の記憶によると延べ30回くらい職業を代えたという。本人によるとその理由は、仕事がつらいのでやめる、けんかしてやめる、自身から身を引くなどであったという。それらは、美術学校に進学して美術の基礎を学ぶためという選択肢のもとではなった。やがて、西宮にある美術教室でデッサンをはじめることになる。デッサンを元に裸婦の油彩画を描いていたのはこの頃である。1953年の第6回芦屋市展に《黄色の裸婦》を出品したが、彼が驚いたのは,そこには抽象画が多く出品されていたことである。ほとんど初めて接する抽象画に,彼の驚きは、新たな挑戦へと向かっていった。彼の求めていた自由に自分自身を表現することを抽象画に託することとなった。彼はその素材を求めて近くの海岸に出かけた。そのときに生まれた作品が、翌年の第7回芦屋市展に出品された《ざるから》と《めばえ》である(註8)。そして抽象表現を求めた元永が出会ったかたちが,その後の元永定正のかたちとなる。そのヒントは、住んでいた家から見える夜の摩耶山(註9)の光だった。山の頂上に散らばる光は、山に囲まれたふるさとでは見たことのない光景だった。夜ごと見る山頂の光の感動から《寳がある》が生まれた。海で拾った廃品や窓から見える夜景など元永定正の抽象表現は、生活の中から生まれ、自然を背景にした創造は、後の彼の仕事をより展開力のあるものにした。そのスタート地点がここにある。吉原治良は「身近かな材料でもったいぶった芸術作品からは味わえない人間性が感じられる」(註10)と評した。抽象を目指し始めた元永は、それまでとは違って立体のアイデアが浮かんでくるようになった。第8回芦屋市展に出品した自然界で見つけた石を使ったユーモラスな作品は、具体への参加を決定的なものとした。元永の持つ素質を吉原は、彼の人間性の柔軟さとともに見抜き、具体メンバーとして彼を迎え入れたのである。彼の才能は、アカデミックな美術教育のもとでは育たなかったかも知れない。
〜具体初期〜
具体のメンバーとして元永の初期作品の中でも際立つのが、水や煙の作品である。「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」では、透明のビニールの中に食紅で色づけをした水を入れて吊るした。これは、吉原に「元永君これは素晴らしいよ。水の彫刻なんて世界で初めてや、すごいものを作ったね」(註11)と賞賛を受けた。また、元永は、水と同じく本来はかたちとして残らない煙を使った作品を制作している。1956年4月にライフ誌の取材でメンバーが作品を制作しパフォーマンスをしたときである。約1mの立方体の木箱の全面に丸い穴をあけて、その中に発煙筒の煙を充満させて、後ろをたたいて煙の輪を作る作品である。ちょうどそれは、タバコを吸う人が、口をつぼめて煙の輪を作って遊ぶことと同じ原理である。後の「舞台を使用する具体美術展」に出品されたときには、カラーライトをあてられた直径50cmほどの煙の輪が、舞台から観客席へとゆらゆらと舞い上がり、やがて消えていくという演出があり、儚さを伴う時間の経過であった。水の作品は、その後現在に至るまで幅の異なるビニールチューブを使い、さまざまな場所でかたちを代えて具体回顧展の代表的な作品として出品されてきている。
初期の絵画が、具体的な方向性を示したのは、1957年の第3回具体展の展示であった。広い会場に大作を含めて15点ほどを出品した。このときはまだ、いずれも山のかたちから展開された作品であった。しかし57年後半から、ふとしたきっかけで自らの画法を見出すことになる。「最初は流すつもりなんか、全然なかったんや。偶然流れてしもうた。はみだしたから、ワッ、これはしもうたと思ったね。」「よくみると、意外におもしろい。ようし、これはイケルかもしれん・・・」(註12)
その失敗とも言える制作上での出会いを受け入れたのである。それはオートマチックな偶然性を取入れた画法でもなく、アクションや偶然を重ねたものでもない。流れ方、重なり具合は,元永によってコントロールされている。日常的に描き留められた数多くの小さなドローイングをもとに静かに画面描き出すかたちを決め、色を意識的に流しながら加えていく。それは、日本の伝統的な墨流しとも共通する繊細な色のせめぎ合いを生み出す。素材も油彩絵の具からフタル酸系合成樹脂エナメルの自然乾燥系のモノで,テレピン油を併用している。その他石ころや、それを付ける接着剤、また種ペンキと呼ばれる塗料が使われている。それは、自然の成り行きにまかせたペイントの流れを使って「自然の力を使って自分の考えを越えたところで自分の作品を生み出そうと考えていた。」(註13)という。元永は、そのころの彼自身の描き方を「摩耶山のかたちから出発した私の絵はいくら絵の具を流した作品だといってもまずかたちを考えることから始まるのである。(中略)かたちの上部にあたるところから静かにゆるやかに色を流す。そしてまた違った色のかたちを重ねて色を流す。かたちと流れた絵の具の関係が私だけの空間を生みだし私の世界が出現する。」(註14)と語っている。
それらは素材として安価なものばかりであり、具体メンバーに共通する広い場所で大きな作品を描く、そして「これまでに見たことのない絵」を生み出すための必然性であった。元永の絵画は、具体の一員としてアンフォルメル絵画に集約されているが、果たして元永の作風をアンフォルメルという分類に組込むことはできるのだろうか。それぞれの作家の作品の微妙な多様化が、具体の捉えにくさでもある。
〜海外への紹介〜
1957年秋、ミシェル・タピエの来日によって、一躍国際的な場に広がるようになった具体は、イタリア、フランスを中心に作品が紹介されるようになった。1年後ミシェル・タピエの口添えでニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーで開かれた具体展は、当時展覧会は決して好評とは言えなかったが、その後の歴史の一ページを開いた展覧会である。元永もその一員として出品した。翌59年には、イタリアでも作品を発表し、XI Premio Lissone-internazionale par la pittura に招待され海外で初めて受賞した。具体とミシェル・タピエとの出会いが、元永をはじめ具体のメンバーを国際的な舞台にデビューさせたときである。60年には、元永は,個人的にマーサ・ジャクソン・ギャラリーと契約して、毎月150号から100号の作品と小品を送ることとなり、わずかながら収入を得ることができるようになったという。
そしてそれらの作品によってマーサ・ジャクソン画廊で個展を開くこととなった。(註15)元永は、このとき渡米していない。)同じころ東京画廊と評論家から東京での個展を勧められ東京でも個展を開いた。しかし具体のメンバーが一人個展を開くということに対して、それまで個展を開いていなかった吉原治良(註16)の抵抗は強く、「モーヤンはクーデターを起こした」(註17)とさえメンバーから言われたという。
1962年8月末に具体ピナコテカが開館、吉原治良の夢は、ここを起点にますます世界へと広がっていくことになる。この建物は、もともと吉原治良の経営する植物油問屋の貯蔵倉庫であり、それを改装してギャラリーにする発想は、まさに今日重要視されているリノベーションの先駆であろう。そして吉原は、このとき画家であるだけではなく、具体リーダー、会社社長、展覧会プロデューサー、美術館オーナー、コレクターとして当時の日本の現代美術を代表する要素を持ったのである。そして具体の活動を国際的広めていく中で、元永がアメリカで発表する機会を得たのである。
〜ニューヨーク滞在〜
1966年、元永は、ジャパンソサエティーの招聘によって約10ヶ月間ニューヨークに滞在する機会を得た。このときから元永の身辺には大きな変化が生まれ、作品も素材が大きく変わる。制作をはじめようとしたとき、日本にいるときと同じ素材を見つけることができなかった。しかし、彼はそれを新たな展開へのきっかけに仕様と考えた。それは、アクリル絵の具によるエアブラッシュだった。かたちの輪郭は変らないが、それは元永の新たな世界の誕生であった。そしてそれは、終生彼の技法となった。
60年代後半のニューヨークは、日本人アーティストたちのあこがれの地であった。元永にとってそこは、新たな芸術の息吹を取入れる場であるとともに、多くのジャンルを超えた人たちとの出会いの場であった。そのひとり、のちに絵本の仕事を手がけたルーツとなったのは、アパートメントの隣室にいた詩人谷川俊太郎との付き合いがはじまりであった。元永の描いた絵に谷川が言葉をつけて遊んだことが発端となり絵本「もこもこもこ」が生まれた。ニューヨーク滞在を延長することも考えたが、元永は帰国を選び、ヨーロッパ旅行を経て1年経った日本帰国した。帰国は、ニューヨークで生まれた第二子とともに3人だった。(註18)10ヶ月という短いニューヨーク滞在であったが、多くの美術館や画廊をめぐり、スタジオを構えて制作もした。外から日本を見れば、自国のことがよく見えてくると言われるが、アメリカでは自国の美術家を大切にすることや彼らが楽しみながら制作をしているところを見て共感している。
〜帰国から退会まで〜
66年から67年は、具体も第三期の若手メンバーを加え、ハードエッジの作品などが加わり、元永は、1年間のギャップに違和感を感じた。そして元永にとっての大きな仕事は、1970年に大阪で開かれることになったEXPO’70のお祭り広場での「具体美術まつり」と「夜のイベント」での演出の担当だった。元永自身の出品作品は、旧作の《煙》に加えて《スパンコール人間》《毛糸人間》《飛び出すマシン》《旗、旗、旗》などであった。それらの一部は、1999年に元永自身が開催した「元永定正舞台空間展」(註19)で再現された。しかしながら、大きな国家プロジェクトであったEXPO’70は、お祭りの華やかさの反面、人間関係の後味の悪さも残した。このとき元永は、具体を退会することを決意した。吉原治良急逝の5ヶ月前のことであった。初期メンバーのひとりとして、吉原のリーダーシップのもと自由奔放に創作活動を続けられたことは、具体の環境が生み出した大きな財産であり、吉原の大いなる見識であったことは言うまでもない。元永は、その中で自分自身の才能を発見していき、ニューヨークに滞在することによって、より客観的に具体の活動を見極めた。その結果が、EXPO’70後の離脱であった。
〜具体解散後〜
元永の絵画のイメージは、ニューヨーク滞在でエアブラッシュという新たな展開が生まれ、大きく変化した。基本的なかたちは変わらないが、色を「流す」という特徴から、「ぼかす」という視覚的には大きな違いが表れ、鑑賞者の印象も大きく変わった。静的な慎重さを極める描き方であったにもかかわらず60年代前半までの作品は、ダイナミックな印象を与えた。それ以降のエアブラッシュによるグラデーションは、コロナのような強い光の画面を生み出して、その鮮やかな色彩とともに以前にも増してユーモラスな、はっきりしたかたちが想像力を与えてくれるようになった。そして70年代以降の作品は、元永の人間性でもある楽天的な性格と自称「アホ派」と言って、はばからない好奇心で、常に画布の前にたったとき、頭で考えるのではなく、からだが先に描き始めている。
70年代から80年代にかけての作品は、かたち、色がエアブラッシュの効果によって自在にコントロールされることによって元永の世界が定着してきた。個展を中心に発表を続けているが、タブロー作品だけではなく、版画、タピストリー、椅子、カーペインティング、壁画制作などその範囲は公共的なモニュメントなどにも幅を広げた。銭湯のタイル壁にも元永の作品は登場している。元永の作品がポピュラリティーをもった要素の一つとして絵本の出版が大きな役割を果たしている。ニューヨーク滞在中に元永の絵に谷川俊太郎が詩をつけた共同作品は、10年以上たった1977年に出版されベストセラーとなっている。元永の名前は知らなくても、その絵は知っている若い世代が増えていっているのである。その後も数回にわたって二人のコラボレーションは続き、夫人である中辻悦子の生み出す絵本にも谷川の詩は、ナンセンスな言葉遊びの耳ざわりのいい語感を綴っている。
この時代以後の元永の作品のタイトルの変化も彼のおおらかさを感じさせるものである。《zzzzz》(1971年)、《ポンポンポン》(1972年)、《ヘランヘラン》(1975年)など擬音語でもなく、ある意味でたらめな文字を組み合わせて、言葉になりそうに聞こえる言葉である。そこには何かが生まれようとする直前の感覚を読み取ることができる。のちには、《せんのかたち》(1975年)、《しろいひかりのあかとくろ》(1982年)、《うえのかたちはななつ》(1988年)など絵の中に表れている、かたちや色を見た通りの言葉に置き換えて、それをタイトルにする作品がほとんどとなる。具体時代は、吉原の独断によってすべてのメンバーのタイトルは《作品》であった。これは、タイトルに文字の意味や説明が入ると文学的な感覚が印象づけられて、作品そのものを自由に鑑賞できなくなることを理由としていた。元永は、70年以後自由にタイトルをつけたが、それは、鑑賞者を誘導しているように見えるが、実際には、意味を持たないものであったり、より元永の世界へ引きずり込む要因となっていたりした。
意味のない言葉のルーツは、『具体』誌第4号の《作品—文字》(註20)である。カタカナを意味のない順序で横13文字、縦31行を平行四辺形に配置した作品である。カタカナとともにも字数も意味を持つものではない。そこから50年を経て『ちんろろきしし』(註21) が出版された。無意味に綴られた文字の流れに、時折意味らしきものを見つけるが、それは具体的なものではない。元永の絵画に登場する「かたち」と、日常的に知っている「文字」は見えるが、そのひとつひとつは意味をもたないという共通点をもつ。この共通性は、元永の作品を楽しむ重要なポイントとなる。
〜90年代以降〜
90年代になって、20年続いたエアブラッシュによる画風に変化が見られる。「ぼかす」絵に「流す」という行為が同じ画面で併用された作品が出現した。それは、古い作品への回帰にも見えたが、現時点から遡ると最晩年の作品につながる新たな展開であった。近年は、80年代後半から始まった具体回顧の展覧会での《水》の再制作をはじめ「舞台空間展」そして「元永定正アートパフォーマンス−現代美術と演歌について」をはじめ、各地で開かれる元永自身の回顧展や中辻悦子夫人とのコラボレーションによる絵本の展覧会など、多忙を極めた。
2011年秋に兵庫県立美術館で開催された「REFLEXIONEN ひかり いろ かたち」
(註22) では、30数版を使った新たなシルクスクリーンの仕事をもとに「流し」を重ねた小作品83点が展示された。
元永定正は、吉原治良との出会いによって画家としての本格的な歩みをはじめた。それは、元永の天性の気質と具体の精神が融合し、自由奔放に具体で活動した姿勢は、終生変るものではなかった。元永は言う「私は美術の学校で学んだことは1度も無い。具体美術協会が私の世界から消えたとき私は具体美術学校を18年かかってやっと卒業したと思ったのである。」(註23)
そして元永の最後の仕事となったのは、2013年2月グッゲンハイム美術館で開催された「具体:素晴らしい遊び場」でのロタンダを飾った16本のビニールチューブによる色とりどりの《水》であった。発表から57年を経た作品が新たな開放的な空間で見せた新鮮な遊び心は、この展覧会が目指した具体の精神を象徴的に示していた。
元永は、その状況を見ることはできなかったが、2012年10月4日の昼、展覧会の企画者アレキサンドラ・モンローとミン・ティアンポの訪問を受け、グッゲンハイム美術館ロタンダの模型を見てその展示空間を確認している。その夜、彼は帰らぬ人となった。
註釈
註1 本来のことわざは、「一寸先は闇」。元永は、しばしば「闇」を「光」に言い換えて使った。「一寸先は闇」とは、これから先のことはどうなるのか、まったく予測できないことのたとえ。目の前のことでも、未来のことはまったく予測ができないこと
註2 「わが心の自叙伝」『神戸新聞』2003年5月 18日。本稿では、元永定正の没後開かれた『お別れの会』のときに配られた冊子(2010年11月26日発行)に再録されたものから引用した。
註3 「わが心の自叙伝」『神戸新聞』2003年6月8日
註4 元永定正の父は、タクシー運転手としてこの頃には大阪で働いていた。二回目の就職のときには、父に相談をかけている。
註5 「わが心の自叙伝」『神戸新聞』2003年7月13日
註6 「わが心の自叙伝」『神戸新聞』2003年9月7日
註7 「わが心の自叙伝」『神戸新聞』2003年10月19日
註8 当時《作品A》《作品B》とタイトルはつけられていた。それ以外に《作品C》が出品され、立体3点と絵画1点を出品。
註9 元永が住んでいたところは、神戸市の東部で、芦屋に隣接したところであった。南は大阪湾、北は摩耶山、六甲山系の山々が連なる住宅地である。その海よりに住み、家の窓から山を見ると、リゾート地として開発された山頂一帯に寄るも多くの光が見えた。生まれ故郷の伊賀の山々とは異なる夜の風景に元永は感動したという。
註10 『読売新聞』「芦屋市展から1」吉原治良、1954年6月9日
註11 『作品集 元永定正1946-1990』「具体の頃」元永定正、1990年、博進堂
註12 『美術手帖』「塗料の魔術」、佐々木豊、No. 265、1966年4月
註13 『作品集 元永定正1946-1990』「ぐたいのころ」元永定正、1990年、博進堂
註14 『作品集 元永定正1946-1990』「ぐたいのころ」元永定正、1990年、博進堂
註15 「MOTONAGA FIRST ONE-MAN EXHIBIT」Martha Jackson Garallery,NY 196112.19~1962.1.6、元永は、このとき渡米していない。
註16 吉原治良は、1928年、23歳のときに、大阪で一度だけ個展を開催している。当時具体のメンバーが、個展をすることをよしとは思わなかったようである。このためか元永は、グタイピナコテカでは、個展をしていない。
註17 『作品集 元永定正1946-1990』「ぐたいのころ」元永定正、1990年、博進堂
註18 元永は、渡米前の1960年に、デザイナーの中辻悦子と結婚し、65年に長男大輔が生まれた。長男は中辻の実家に預けて渡米した。
註19 「元永定正舞台空間展」、1999年1月27日、神戸新聞松方ホール、神戸
註20 『具体』誌第4号、1956年7月
註21 『ちんろろきしし』、2006年、福音館書店
註22 神戸ビエンナーレ2011の一環として、01/10/2011〜23/11/2011に兵庫県立美術館において開催された。
註23 『作品集 元永定正1946-1990』「ぐたいのころ」元永定正、1990年、博進堂