著:池田龍雄

本エッセイは1956年、新日本文学会より出版された「新日本文学」に掲載されたものです。

前置き 以下は、わたしの創作実践の過程を、順を追って記録した簡単な手記の一例だが、これによってわたしの創作方法に関する 色々な問題(疑問や、誤りや、正しさ)をひき出していただければ幸いである。 

目下(五月二十三日現存)わたしは百号のキャンパスに取組んで いる。題は「黒い機械」とでもするつもりで、すでにもう七分通りは出来上っているのだが、金づまりになった土木工事みたいにそれ以後が遅々としてはかどらない。

無論、本当に金づまりと云う原因も無いわけではない、制作中にもちょいちょい稼ぎの仕事をやらねばならぬし、雑用が制作の邪魔をする時もある、だが実はそれらよりもっと大きな原因が外にあるらしいのだ、考えてみるとどうやらそれは制作方法に一貴した線が通っていないことを意味しているのではなかろうか。正直なところ、途中の準備が完全でなかったことは事実だ。確実な動機、正しい意図、周到なプラン、綿密に計算された効果、そしてその着実な実行 —と、こう云う風に書きたてるとまるでわたしの創作活動が知能犯のそれと一見、似通っているみたいだが、まんざらそうでなくもないらしく、いつか、わたしの絵に「探偵絵画」という名称を附けてくれた人がいたのを思い出す。—

余計な註釈はきて置き、なるべく順を追って書こう。すなわち、出発はこうである。

日頃、常にもやもやしたもの—不安や欲望や憤り抑圧感や倦怠が体の中に溜っており、そいつがだんだん頭の方に上ってきて漢然とした造型的なイメ—ジとなって漂いはじめる。勿論まだ判然とした形は無い。幾つもの要素が、丁度、壊れて散らばった目覚し 時計の部分品のように、ばらばらのままで混沌の中に包まれているといった恰好だ。そしてそのカオスはそのままでは、いつまで経っても決して晴れることのない濃霧みたいに執念深く立ち込めたままである。その底辺あたり、乃至はその一部が、あたかも卵と精子が結合して活溌な核分裂が行われる様な具合に、一つの具体的なイメージに転化する為には、或る現実的な「もの」にぶつかる必要がある。少くとも僕の場合にはそうだ。

但し、きっかけという奴は大方の場合、ほんの一寸したことで充分である。

例えば或る冬の日、わたしは知人の立派なアトリエに遊んでいて、ふと片隅のミカン箱の中に石炭が無造作に山盛りにしてあるのを発見する(わたしはまだ自分のアトリエを持っていないし、ストーブも無い)、すると不断なら何気なく見過していた石炭が、何故かその時おそろしく異様なオブジェとして眼にうつる、そして最早「彼のストープの石炭」でなくなったその黒いひと塊りは、わたしの頭の中で急速な連鎖反応を起すのだ。様々な経験の記憶や種々の観念が雑然と通り過ぎるー子供の頃折角の日曜をおあずけにして近くのボタ山に石炭を拾いに行つたこと、その時、何故そこいらの石くれの全部が燃える石ではないのかと不思議がったこと、或は、航空隊の時、兵営内の思い掛ない場所に石炭が囲いもなく山と置かれてあるのを見て一体これは誰のもので、何に使うのだろうと何となく不安を感じたこと、或は、近年、火力発電所に友人を訪ね、ボイラーの中で石炭の粉末が強烈に燃えている姿(それは火と云うよりもむしろ、白熱してほどばしる光に見えた)をのぞき込んで、六万ボルトの電圧を生むその勢力のすさまじさに息をのんだこと等等、ミカン箱の中の黒いオブジェは、このように色々の回想を伴って再び現実の中に形を現わすのである。イメージに、云わば受精が 行われるのは正にこの瞬問だ。

然し受精したものは必ず無事に陽の目を見るとは限らない。

わたしは、その時石炭について描きたいと思った。だが、かと云 って直ちにミカン箱と石炭とをそのまま芸もなく写してみたところで何になろう、さしずめ、生活派のセンチメンタリストならうす汚れた画布の上にそれを定着して<庶民>の<生活感情>を出すことにすいすいとなるだろうし、モダンな造型主義者ならその黒い無秩序からヒントを得て、整然たる図柄を思い付くかもしれない。けれども、その様な位置、そのような「眼」の前に、石炭はありのままの姿をいささかでも現わすだろうか、ストーブに燃え、電気に変り、靴下に化け、或る場合にはビンボー人の子供達の遊び時間をうばい、或は幾人もの命を地底で圧しつぶす「もの」、その実態を見究める為にわたしのとらなければならぬ行動は少くともアトリエを出ることである。石炭にかぎらずあらゆる「もの」が、わたし達の前に裸のまま転がされているにもかかわらず、
それは幾重に覆われ、わたし達はそれ等と直接の接触をする機会と能力とに仲々惠まれていない。そしてこれを克股する手段は実践以外には無いだろう。

利口な人からは、或はいかにも素朴だとあざけられるかも知れないけれど、石炭について知ろうと思ったわたしは、その出身地を尋ねることからとりかかった。

炭坑—そこは云わば、人間と石炭との、—や石炭をめぐる人間同志のむき出しの闘いの場所である。そこには多くの新しい発見が待っていた。最初のイメージが大きく崩れる。二尺五寸の天地に遣いつくばったわたしのキャップランプに照らし出された黒い岩、それは熱と埃、コンベアーのチェーンの轟音との中に、金と命との代償として無気味に光る岩だ。わたしの頭の中には幾つかのデーターがそれにダブって投影する。—坑夫の賃金、トン当りの炭価、入坑率と生産高の変動を示しているグラフ、etc、

すると、わたしは、そこで再び石炭を見失った様に感じた。石炭に取囲まれ、石炭に憑かれ、余りにも石炭を見すぎた為であろうか。 ここでもう一度、何故石炭を描こうと思ったかを振り返ってみる必要がある。わたしが、はるばる炭坑まで出かけて行ったのは、決して石炭の生産に関する社会学的知識を身につける為に行ったのではなかったはずだ。一度、オブジェになったそれが、或る物質として立ち塞がったあのアトリエでの小さな感動を踏み台にして、それにまつわる背後のカラクリを探り、そこから逆光を浴せてそのものの実態をあらわにする為ではなかったか。そしてわたしはそこで、石炭を真ん中にして、掘らせる側と、掘らせられる側との力がひしめき合っているのを見た。子供の頃の炭拾いの思い出が、触覚に似た感覚をともなって蘇って来る。わたしの眼は恐らく初めて坑内に下った坑夫の眼に近づいたであろう。只、それと決定的に違う点は、彼がすでに客観的には、石炭を生産する道具とエネルギーの一部に化して、それを外側から眺める位置を失っているのに反して、わたしは石炭と坑夫とを同時にその背後から冷たく見め得ることだ。にもかかわらず、その時わたしは明らかに石炭がわたしにも亦敵対している実感を受止めた。ありのままの石炭とは、実はこの様な「もの」であったか、とするとあのミカン箱の中の石炭は果してどこにかくれたのだろう。然し、あれも、石炭であることに間違いなかったはずだ、自然のままの荒々しいものと、人工を経てとりすましたもの、ー

わたしはどうやら余りにも一本調子に真向うから対象に迫り過ぎたらしい、むしろ側面から攻めて行ったが賢明ではなかったか、石炭は孤立して存在しない、その生産に関するカラクリとつながってそれを消費するカラクリ乃至はそれを基にして新しい商品を生産するカラクリがあることをどうして見逃していたのか。

わたしの「石炭」は、ここで、他の「もの」に突然変貌した。ー機械、ーつまり商品として生産されながらあらゆる商品を産む道具であり、人間の味方でありながら現在同時に人間の敵である武器。そのメカニズムの正体についてである。わたしは一方では「化物の糸譜」と題して、わたしの内と外とをひっくるめた周囲に巣食う化物達を、いもづる式につきとめる仕事をやっているが、そのような化物達ともなお激しく対立し矛盾し合う機械の群の複雑な構造と機能とのその否定的な面を形象化しようと云う意図を持つに至った。最初の動機は変らなくとも、意図は大きくカーブして搦手の方に廻ったわけだ。

さて、 制作以前の条件は 一応揃ったと云ってよかろう。ところで実はこの後が困難な仕事である。初期の漢然としたイメージはすでに完全に変質して、収拾つかないまでにぼう大になってしまった。いきなりキャンパスに向ってもとても納まり切れるものではない。その前に、選択や誇張や省略や変形やまたは全く新しいフォルムへの転置がなされなければならないのだ。

然し一般に、「もの」(対象)は、始め、本能的、感覚的に受止めている間は生々としているのだが、一度それを分析し、抽象化して認識する間にどうしても最初の生彩を失ってしまう。ましてそれを、安易に色と形とにホンヤクし直して説明的に画面に乗せてみた ところで、「絵図」は出来るかもしれないが、決して「芸術作品」は生れないだろう。つまり、対象とイメージ、イメージと形象化の作業との間には逃げられない摩擦が起きる。白いキャンバスはいつでも塗りつぶされるのを待っているようでありながら、実は、何かを描かれることを意地悪く拒否するのだ。

だが、そのようなキャンバスにひるんでいては何も始まらない。わたしは先ず、何枚かの紙の上色々な機械の形態を、描きながらさぐってゆく。無論それは現実の形態の単なる引写しやそのアレンジではない、而も現実以外であってはならない、又、テ—マをせっかちに実現しようとあせって、図式に陥ち入ることも警戒せねばならぬ。数字的な計算と心理的な計算のバランスとアンバランスとの交錯した面、青写真を写すように慎重でありながら、マキを割る時みたいに大まかに振りかぶった線、紙の上に造られたフォルムは一つの記号であると何時に、リアルな説得力を備えた新しい世界の「物体」であるべきだ。

その様な点に集中しながらどうにか最終的なデッサンは出来上った。あとはもう油絵具のねばっこい抵抗を克服しながらほとんど機械的にそれをキャンバスの中に塗り込んで行けばいいのである。従って前述の通り、七分通りまでは間もなく出来上ったわけだが—出来上るにつれて、いまいましいことに、それは次第に現実から浮き上って来る傾向を示し始めた。一体どこに誤算があったのだろう。意図の転換の仕方にか、又はキャンバスに向う以前の線と、以後の線との接触の不手際か、それとも、必然と偶然とのなり合さったあの微妙な空間のリズムに呼吸を合わせる技術が不足しているのか、わたしは目下その原因について考察しながらも失張、パレットを握っている。絵描は、結局、絵具で答を出す以外にはないからである。

All text and artwork © Estate Tatsuo Ikeda

Tatsuo Ikeda, Black Machine, 1956. Oil on canvas, 162.1 x 130.3 cm. Aichi Prefectural Museum of Art