少年時代から、私の愛読してやまないものに、中国の長編巷談 水滸伝がある。年来何処が好きなのか確かめた事もなく、唯いろいろの邦訳を面白く読んでいるだけであるが、その中国的な雄大な自然の中に豪快な人物が活躍するところ、雲をわかせ、風をおこし実に痛快である。

長い年月、巷間に流布される間に組み立てられ色づけされたのもで、一作者の思想や教養を感じさせないし、登場する人物も引きくるめての大きな自然観の展開であって、人間の気ままな行為のラ列にすぎない。しかし、これ程生命力にみちみちてはち切れる程のエネルギーを感じさせるものはない。素朴豪放のかたまりみたいなものである。私が痛快がって何度も読み返したのはこうした点からだけであって、東洋哲学的な意義や政治的な意義を考えて見たことはない。さてこの豪放という感じは、世の繊細な知的なものと正反対の太い感じのもので、荒けずりではあるがちゃんと神経の通ったもので、粗暴とか粗雑とかいう感じのものではなく自己にも他人にも責任を持っていて、人間として誠実な生き方の現我の一つであると思う。

ところが我々日本人の民族的な感覚は豪放さに置いて貧弱なものを感じるのは致し方がない。

鎌倉時代や桃山時代には豪放な機運がみちていて時代の特色にはなっているが、自然スケールの違いから来るのか中国的な徹底性がないように思う。日本人の先天的な性情は神経質で形式的なことが好きで、あきらめが早い。そして事大主義である。これは何とかならないものだろうか。

水滸に出てくる人物は一人一人が創意的で徹底的である。善い人は徹底的に善いし、悪い奴は徹底的に悪い奴である、繊細な物は徹底的に繊細であり、豪放な物は徹底的に豪放で、酒飲みも、女たらしもすこぶる度はずれで面白い。何んでもやることが自信に満ちていて嬉しい。ちっとも日本の代議士タイプの様に太い声で笑って見せるが、すぐこそこそ尾を振って長い物に巻かれてしまう犬の様な合法ぶった物は一人も出てこない。ちゃんと自身があってこそ勇気が出てくるのでびくびくしながら豪放な態度はできないものである。

私には水滸伝的豪放さというものが、もっともっとほしいだけで、私の資質をこやしてゆく上になくてはならぬものである。

そして私の創造精神と密接な繋がりを持っているのである。

(尼崎在住 画家)

白髪一雄「随想 水滸伝的豪放」『神戸新聞』、1954年4月2日付