Tatsuo Ikeda
作家について
1928年佐賀県生。第二次世界大戦下、15歳で神風特攻隊員になるという激動の少年期を過ごしました。出撃命令前に終戦を迎え、1948年東京に移住しました。多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)に入学、岡本太郎、羽田清輝らによるアヴァンギャルド芸術研究会に参加しました。
池田は、軍国主義者から日本文化を取り戻そうと奮起した1950年代初期に台頭した作家たちの1人で、彼らは20年間に及ぶナショナリズム的洗脳から個としての自身を訴え、また新しい表現方法を求めました。具体美術協会や実験工房が形式的、概念的な美学へのアプローチをとり、非政治的なスタンスをとる一方で、池田、河原温、中村宏等の作家たちは断固として、社会・政治・経済に向き合う態度を示しました。
池田は、1953年、米軍が海岸を砲撃場にしていた内灘の海辺の村で抗議活動を行ったことをきっかけに、初めて成熟した作品を制作しました。最も安価なインクと紙を使って、ルポルタージュと風刺を融合させた表現力豊かな写実主義的なドローイングを描きました。同時に在日米軍基地を中心に活動し、米軍人と現地の人々の居心地の悪い共存と、そこから生まれた関係性、依存関係、妥協点を探りました。当時の池田は、朝鮮戦争出兵前の、米軍人のために、彼ら自身や、彼らの妻や恋人の肖像画を描く「絹こすり」を描くことで生計を立てていたことへの矛盾を感じていました。
1954年、アメリカの太平洋での熱核実験(水爆)への怒りが、池田の人間と動物に関する表現に変化をもたらします。 この変化は、日本の急速な再工業化の有毒性を反映したものでもあります。ケミカルパイプと人間の腸が融合した不毛のポスト原発地帯を舞台にした池田の作品は、犬や鳥の姿をした人間の姿をした人間の姿をした人間の姿をした人間の姿をした人間の姿をした人間の姿をした人間の姿をしています。このような精神で、池田は1955年から1960年にかけて、《化物の系譜》《禽獣記》《百仮面》などの大作シリーズに取り組みました。

1960年の日米安保条約に対する抗議行動が失敗したことで、池田の作品に変化が生まれました。 《楕円空間》シリーズ(1963-64年)では、身体の構造や人間の意識を分子レベルで探求し、社会的な関心は一時的に薄れていきます。続く《玩具世界》シリーズ(1966-70年)では、池田が生前まで取り組んでいた社会問題と、ハンス・ベルメールのようなシュールレアリスム、日本のポップ・カルチャーやサイケデリアを融合させた独創的な作品を発表しています。
数年間の探究の後、池田は、作家自身が残りの人生において創造的な焦点になると考えてた《BRAHMAN》シリーズの制作を1973年から開始しました。 ヒンドゥー教の哲学に目を向け、何百枚ものチョークとインクのドローイングで、宇宙の多様性の根底にある形而上学的な結びつきを探りました。 BRAHMAN(ブラフマン)の中で、池田は社会的な原因からの解放を見出し、無限の空間の中でジェンダーレスな胎児形態によって占められた永遠の真理と至福の状態を受け入れます。
1988年に完成した《BRAHMAN》は、その後、アサンブラージュ・ペインティングや彫刻の《場の相》シリーズを中心に制作しています。ビジュアル・アーティスト以外にも、池田は作家としても高い評価を得ました。彼の作品は国際的に展示されています。ここ数十年では、練馬区立美術館での「池田龍雄展-楕円幻想」(2018年)、ニューヨーク近代美術館(MoMA)での「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展(2012-13年)、山梨県立美術館での「池田龍雄:アヴァンギャルドの軌跡」(2010-11年)、また練馬区立美術館での「池田龍雄・中村宏」展(1997年)、練馬区立美術館(1997年)などの展覧会があげられます。また、日米安保条約、戦争、そしてアートの関係を検証した、リンダ・ホーグランド監督のドキュメンタリー映画「ANPO」(2010年)にも出演されました。
2020年11月池田龍雄は東京にてご逝去されました。
作家による著書
新しい世界の「物体」にぶつかる
Clashing into “Things” of a New World
by Tatsuo Ikeda (1956)
ギャラリー
アーティストを偲んで
TATSUO IKEDA (1928–2020)
過去の展覧会



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