あれは確か二〇〇二年、チューリヒでのことだった。僕ら三人は、シルヴィーという名のピアノバーに行った。コースターにはバラの花がプリントされていた。僕らは音楽を聴くでもなく、あれこれお喋りした。リタが来ていたのはよかった。ニューヨークの空気を持ってきてくれていた。彼女とアンドロが、バーゼルの美術館で一緒の展覧に参加した後、すぐ友だちになったと聞いても、僕にはちっとも驚きではなかった。
アンドロといるのはいつだっていい感じだった。ツギハギのドイツ語だけれど、彼には言いたいことがたくさんあるんだってことは、誰にだって分かる。彼は、若い神さまのようだった。僕は最初から彼と気が合い、作品も好きだった。それで、彼のスタジオに行ってみた。見せてくれたのは、束になった小さなドローイングで、ロボットやスピードカーや子供の頃の彼とお兄さんの肖像が奇妙に入り混じっていた。
何枚かは、派手な色に塗られていた。アンドロは直感的で、線からパターンを紡ぎ出し、たちまちアートに変える方法を知っていた。集中の仕方もユニークだった。突然、手の動きが優美になり、方向性が定まる。その手の動きがふと止まり、後ずさりして首を傾げ、たったいま仕上げたものを眺める。彼にとってアート作りは楽しくて、ごく自然なことだった。スタジオの床は、写真や雑誌のページで埋まっていた。家族の写真と雑誌の写真のペアリング。彼は実にたくさんの家族写真を持っていた。どの写真も、これまで家族アルバムに収まった形跡はないようだった。それはまるで、過去の噴出といった眺め。僕より若いはずなのに、彼の子供時代の写真には年代物めいた煌めきがあった。優雅な時代の産物で、魔法の場所の黄金時代のドキュメント。彼のアート制作は、インターネット時代のスピードとは無関係に進行していた。古典的でラディカル。色彩自体どこにもないもので、あたかもアーティストの脳が調合する幻覚体験のようだった。
美術史の学生にとって、現代アートと出会う場は大学のどこにもない。一度、一九九五年のことだったと思うけれど、仲間のひとりが、地元で評判の画廊でオープニングがあるから行ってみないかと誘ってくれた。展示されていたのは、大きな、荒いキャンバスだった。黒いシンプルな輪郭線の、妖艶なニンフのごとき少女像が、僕の目を捉えた。自己紹介するリタを見て、画面の中の少女たちにそっくりなことにすぐ気づいた。作品には、物語の断片や、魅力、嫌悪、残酷の瞬間が散らばっていた。僕はまるで、小さなニンフたちの世界制覇を眺めているような、そんな気がしたものだ。リタには洗練さとストリート感覚の両方があった。一九九四年の夏、彼女はニューヨークのニューミュージアムの正面に、ポスト黙示録ともいうべき天国を描き出す。ステンドグラス風のその場面を目にした「ソニック・ユース」のサーストン・ムーアは、次のソロアルバムのカバーデザインをリタに任せたのだった。
リタとの出会いは、現代アートに対する僕の興味を目覚めさせ、それはいまもずっと続いている。当時の僕には、自分がいずれキュレーターになるだろうとか、この二人のアーティストとその後二十年近くも一緒に仕事することになるだろうとは、知る由もなかった。巡回展を企画した時、僕はリタと、彼女の友人のリジー・ボガソスに声をかけ、リジーのバンド「エンジェルブラッド」にパフォーマンスをお願いした。彼女たちは、クライシュタルの街中のどことも知れない場所で夕食会を開き、豚の丸焼きをこしらえたり、安息日の祝宴といった風の音楽を流したりした。
数年後、リタは、友人で映画監督のハーモニー・コリンとコラボし、同じひとつの作品を交互に仕上げていった。彼女にはいつもプロジェクトやコラボレーションがあり、いくつかのアーティスト・コレクティブに参加している。ローワーイーストサイドの彼女のアパートで開かれるパーティは、まさにダウンタウンのベスト作家の集まりだ。彼女にはいろんな顔がある̶ – 画伯のリタ、ミューズ、モデル、歌手、母親、友人、それからコラボレーター。
アンドロとリタが初めてチームを組んだのは、二〇〇三年、『チャプター』と名付けたファンジンの制作だった。最初の号の存在は、謎めいている。というのも、当時の一冊を見つけ出すのはほぼ不可能に近いから。その頃の連絡方法といえば、電話やファクスが普通だった。それで、二人はドミノゲームみたいにして、一方が送ったファクスの一ページにもう一方が応答するというやり方を続けていった。イメージがイメージを呼ぶ、この大西洋を挟んだ唯一無二の会話は、百ページに達した時点で完了し、リリースされた。
でも、二人のコラボレーションがユニークである理由は何だろう。友情? 似たような感性? アートに対する共通のビジョン? ここで、いかにも西洋的な視点を持ち出して、ソビエト時代の郷愁の罠に陥るつもりはないけれど、二人ともロシアに近い国で生まれたということは思い出していいだろう。いやおそらく、外部の声は遮断され、独自のビジョンを形成する機会に恵まれたということだ。数年違いで、リタもアンドロも移民として母国を離れ、まずは新しい国の言語と生活に慣れることが先決となった。リタは、一九九二年、ハンガリーからニューヨークにやって来る。アンドロはジョージアの国立美術学校に学び、一九九五年、まだ十代で最終的にスイスにたどり着く。二人とも、彼らからすればやや時代錯誤的な場所で教育を受けていた。二人とも、アカデミックな地点から出発し、その制約を乗り越える場所へと向かったのだった。
初期の作品では、線の描写が目立つけれど、二人とも画家になるための挑戦を受け入れた。何年もの実践を経て、絵画というメディアにある造形力を身につけ、半透明の色を重ねることで、奥行きのある空間を生み出している。構成は野心的で、いくつか矛盾する情報が織り込まれた画面には、単純な解釈を許さないイメージの網が錯綜している。
いかなるアート傾向とも無縁の二人は、人物画が表現しうる可能性をさらに押し広げようとしている。友情とアートに対する情熱が、二人のコラボレーションの基盤であり、それ以上の言葉は必要ないだろう。純粋に直感的なそのアプローチは、この本の図版に見られるように、作品を通じての二人の対話に息づいている。